phyocc a.k.a. みりん36 (@phyocc) - Information

年末の御挨拶 (2019)

ましまろの声「フン,年末のご挨拶にあたり,今年 1年を振り返ろうにも,忙しすぎて,そんな暇ねえよというのかい?贅沢な身分だねえ。今からおまいの名前は『ゼネラル・エグゼクティブ・プレミアム・マーベラス・怠慢遅筆野郎』だ。いいかい,ゼネラル・エグゼクティブ・プレミアム・マーベラス・怠慢遅筆野郎だよ。分かったら返事をするんだ!!ゼネラル・エグゼクティブ・プレミアム・マーベラス・怠慢遅筆野郎!!!!!」

・・・いっそもう,マシュマロ製造機 (診断メーカーマシュマロで投げてるアレ) で,100個くらいネタを投げて終わりにしたいくらい,何も振り返る余地がなく,途方に暮れ・・・ていたら,いつの間にやら,今日中 (12月23日) に書かないと,今年はもう,書ける日がないところまで追い込まれてしまったもので・・・無理くり振り返りつつ,やっつけ流しで参りたいと思います。
※ 当初,12月15日に書いたものが,あまりにも やっつけ流しだったため,12月23日の「上皇誕生日」を,勝手に「自主旗日」として,いくぶん,加筆修正しました。このために休んだわけではないですが,結果的に,この日までいったい何を・・・

今年はもう,本当に時間がなくて,1年を振り返る余裕もありませんで・・・テキストも,そんなに長くないですし (おそらく,昨年の 3分の2 くらいしかありません),あいかわらず,年末に読めるようなものでもない過激ぶりですし,わざわざ読んでも,いいことは何ひとつないと思いますので,適当に引き返して,紅白と中断ニュースでも観ていてください。今年も,ありがとうございました。よいお年をお迎えくださりますよう。


もう 1年以上,毎日「とぐろターボ」「全中ターボ」「佐々木ターボ」という名の,スパークユンケルやら,リキロングゴールドやら,痛勤に 1本,超勤に 1本の 2本がデフォルトになっているほど,事態は深刻です。もともと,不眠がかなり深刻ではあるのですが,この 1年,さらに目に余る形で,とんでもないミスやエラーを連発したりしていますし,記憶力も相当に悪くなっていますし,「38歳という歳のせい」にするには,あまりにも急激なペースで悪化しています。主治医からも,産業医からも「睡眠確保以外の改善策なし」と断言されておりますが・・・1日・30時間くらいあれば,寝る時間もとれるんじゃないですかね (投げやり)。
しかし,表向きは 7時間半くらいの労働時間であったとしても,1時間の休憩拘束,往復・3時間10分に及ぶ痛勤,出勤の前準備から,帰宅後の始末まで含めれば,仮に定時だとしても,朝の 6時15分から,夜の 7時15分まで 13時間拘束。この理不尽さたるよ。「8時間労働・8時間睡眠・8時間人生の糧」という労働の基本理念は,いったい,どこへいってしまったんでしょうか。これを実現したければ,本当は「3時間労働+5時間労働付帯拘束・8時間睡眠・8時間人生の糧」とすべきでしょう。
端的に言って,金 (おちんぎん) が足りずに,東京 (23区の便利なところ) に住めないから,やむを得ず埼玉 (地代がそれなりに安いところ) に住んで,毎日,長時間痛勤&超勤を強いられる「埼玉都民」の悲哀を,これでもかというほど感じた 1年ですが・・・たしかに,2度の乗り換え,毎日が SOLD OUT 御礼,オーバーキャパもいいところの満員電車で,座席はおろか,座席の 1列目の吊り革のポジションさえ取れずに,2列目から手を伸ばして「立ち寝」するという,毎日の私自身の姿は,もはや「下級国民」などはるかに通り越し,「底辺国民」であるとしか表現できませんで。痛勤ひとつとっても,毎日が,底辺国民としての苦痛と屈辱と恥辱に満ち満ちており,人間としての尊厳さえも,著しく踏みにじられている感覚に,もう耐えられません。
往復痛勤・3時間10分の生活を強いられるようになって,1年2ヶ月。この 1点だけをもってしても,不毛なる人生の無駄遣いであることに,一片の疑いの余地もありませんが,そこに輪をかけて,超勤・3時間10分,業務量・2倍,ノルマ・3倍 (絶対に達成不可能なノルマの押し付けは,当然に「パワハラ」であるものと認識しています),もちろん,このような業務とノルマゆえ,日々悪化する職場環境まで,もれなくついてくるていたらく・・・超勤こそ毎日ではないですが,これまで,往復・90分だった痛勤を超える時間も「金が出ない勤務時間」(しかも,相当ハードな修羅の時間) とみなせば,毎月が過労死ラインのようなもの。金の出ない痛勤分だけ,拘束時間に対して (相対的に) 金を減らされているようなものですし,つくづく「まだ東京で消耗してるの?」というインフルエンサーの言葉が刺さります*1
こんな非人道的な生活,一刻も早く辞めたいわ・・・というのは,贅沢でしょうか。私は,決して贅沢だとは思いませんし,むしろ,贅沢だという感覚のほうが「異常」だと思います。70歳,下手すると 80歳まで働けという「一億総搾取社会」の実現も待ったなしの状況ですが,70歳までの 32年間 (80歳だと 42年間・・・だと?!) どころか,来年・39歳の誕生日まで生きていられるかもわからない人生,こんなことで搾取されている時間と苦痛なんて,なんともったいないことかと!

さて,そこまで徹底的に「呪詛の言葉」をかけているからには,当然のごとく,言いっぱなしではなく,実際に「廃業」に向けたアクションプランを企てておるわけでありますが・・・さて,いつにしましょうかねえ。去年の時点で「廃業届も秒読み」と言っていたわりに,無駄に 1年も過ごしてしまいましたが・・・つくづく,本気で無駄だったとしか言いようがありません。
じゃあ,手元に金も 10億くらいあるし,今すぐ,ただちに,0.005秒で「廃業届」を叩きつけ・・・と言いたいところではありますが,少なくとも,資本社会の賃労働階級の悲哀として,目先の金が続かないというのも困りますゆえ,職場の土地や環境が,これ以上ひどくならぬよう,慎重に事を進めたいところです。まあ,今の職場の環境も,たいがい地に堕ちており,永久に復活の見込みがないばかりか,解散の瀬戸際でさえありますゆえ,常識的に考えて,さっさと逃げるに限るんですが・・・次の職場をしくじると,それはそれで,しんどいですからねえ。やっぱり,当たりどころは「リファラルという名のコネから当たれ」に限りますな。
ということで,第一の目標は,なによりも「この埼玉都民からの廃業」を達成することですかね (埼玉から引っ越すとは言ってない)。あっ,今さら言うまでもないですが,毎月高い金を払って,今の職場の近場に引っ越して「延命」を図るだけの価値もなければ,それだけの金 (おちんぎん) をくれるはずもない職場です,はい。そもそも,職場そのものが「解散の危機」にあるという始末ですし,それこそ,晴れて解散したあかつきには,リストラという名の「クビ候補名簿」の「永久不動終身 1位」たる不良社員でありますゆえ。
そんな反社 (反社畜) 勢力からひとこと,「沈みゆく泥舟から脱出することの,いったい,何が悪いというんです?」

痛勤・1年2ヶ月を体感して思うに,東京という土地は,文化的資源には恵まれた土地でも,労働的にみれば,最悪な土地なんではないでしょうか。来る人がみんな,豊富な文化的資源に触れたい,という思いがあるわけでもないでしょうに,なんで毎年,人が増え続けているのか,不思議で仕方がないのですが・・・「金だけが目当て」だとすれば,よほどの高給取りでもない限り,痛勤の 1点だけをとっても最悪な環境であると,私は断言します。
東京に出てくる人も,本当は地方のほうが (まったり,のんびりしてて) いいんだけど,地方に仕事がなく,というより,仕事があっても食えるだけの金がないから,やむを得ず・・・という事情があるのだとすれば (まあ,9割方の現実はそうなんでしょうけど),いったい「地方創生」ってなんだろうという気もしますし,それどころか,東京一極集中で「日本のシンガポール*2」を推進しているのではなかろうかとさえ思えてきてしまいます。東京の環境で,真に恵まれている人がいるとすれば,23区の (できるだけ都心に近いところの) 生まれで,よくも悪くも金持ちの家庭で,実家住まいができる人くらいではないですか。そう考えると,「生まれた時点で格差不可避」という話も,まったくもって,うなずくほかない話ではありますが。
しかし,時の都知事も,「満員電車ゼロ」(じゃあ,線路容量を 2倍にするか?) などという,およそ実現不可能な政策を掲げるくらいなら,国家レベルで,職場に出向かない働き方 (テレワークでも,なんでもけっこう) を法律で義務付けるほうが,よっぽど,実現可能性がありそうですけどねえ。満員電車で痛勤するたび,みんなだいすき「生産性」がマイナスになるとしか思えませんし,事実,痛勤で無駄に疲弊すればするほど,生産性のマイナスは避けられないわけですから。まあ,物理的な現場 (工場なり建設なり医療なり) がそこにあって,その現場で労働する人々は無理でしょうけども,オフィスワーカーくらい,強制的にやらせればいいんですよ。強制させないと,絶対に「現状維持」のまま終わりますからね (ソースは弊社)。かくいう私も,2020年の東京オリンピックの期間中は (本当は,パラリンピックまでと言いたいところ),少なくとも,東京都下まで働きに出るつもりは,毛頭ございませんのでね。

日本人や,世界人類がどうかは知りませんが,少なくとも私は,労働が死ぬほど嫌いで,労働の存在そのものに対する,根底からの憎しみがあって,まさしく「資本の奴隷」として,毎日,屈辱と苦痛に満ち満ちた労働生活を送っています。この感覚だけは,資本主義の労働市場に身を投じることになった日から,1日たりとも忘れたことはありません。どのくらい,労働が嫌いで憎んでいるかといえば,世界一どころか,全銀河系の生きとし生けるもの・すべての頂点に立てるくらいの自信がありますね。そんなことですから,当然「底辺に落ちた資本主義死ね」という程度に,資本主義に対する激しい憎しみをもっていますし,資本主義を \ ぶっ壊す / 勢力には,今後も,全力で加勢して参る所存であります。これが,単なる「ルサンチマン中二病」とでもいうなら,それはそれで,別にいいです。実際,心底偽りなく思ってることですし。
なお,今さらながら,念のためにフォローしておきますが,賃労働そのものに,生きがいや使命感を感じる人もいるでしょう。私の主義主張は,しょせん,私の個人差が極端に現れたものですし,そういった人々に,押しつけがあってはならないことは百も承知ですが,しかしそれでも,常にとは言わないまでも,ときどき,その生きがいと使命感,資本の支配者に,いいように利用されていませんか?ということを,振り返っていただきたいのです。金や休みはどうでもいい,仕事ができればそれで幸せ,というのもけっこうですが,そのあなたを含む,すべての賃労働者の地位向上のために,ぜひとも,ご協力をお願いできればと思います。あなた方が,いいように利用されているせいで,我々も含めた労働者階級が,いつまで経っても地位向上しない・・・とは決して言いませんが,生きがいや使命感があればこそ,適切な地位向上の運動もあって然るべきでしょう。
最近,東京都下の繁華街で「最低賃金 1,500円を目指そう」というデモも少なからずありますが,実際,東京都下はもとより,全国津津浦浦,マトモに生活するのに金が足りないことは自明なのですから,労働階級の本懐として,こういった主張はどんどんやるべきですし,いはんや,労働側から拒否感や排斥感を示すことなど,まったくもって言語道断だと考えます。それこそ「資本家のために,一緒に貧しく疲弊してどーすんの」的な。というより,事実として,毎年,労働分配率が下がっているのですから,労働階級の主張として「金をよこせ」という要求は,賃労働と引き換えに金をもらう立場からすれば,あまりにも当たり前すぎて,いったい,何をためらう必要があるのやら。あっ,この手の話で必ず出てくる「倒産して失業しても,福祉にいかない&いかせない」という,日本社会の構造と,日本人の奴隷的マインドこそ大問題か。
働き方改革」についてもひとこと。絶対に破綻すると批判されて久しいですが,破綻する理由は至極明快。賃労働の金を上げず,労働負荷を変えず,労働時間だけを短くしようとするのですから,労働階級にとって,これほど搾取的な改悪はありません。端的に言えば,今以上に疲弊させられる上に,なおかつ,手元に入る金が減って,生活が苦しくなるだけなのですから。誰のための「働き方改革」といえば,誰がどうみても「資本階級のための搾取改革」でしかないではないですか。資本主義なんだから,当たり前といえば当たり前すぎる帰結ではありますが,こんな,資本階級にとって好都合でしかない改革は,絶対に許さず,きびしく弾劾しなければなりません。賃労働の金を上げて,労働負荷を減らして,なおかつ,労働時間を短くする。これが,労働階級の立場に立った「当たり前の」働き方改革であって,それ以外の「改革」と名のつくものは,すべて,資本階級の,資本階級による,資本階級のための搾取改革であることを忘れてはなりません。

さて,38歳にしても,守るものも失うものも何もない,正真正銘のやけっぱち人生,ここまで極端な主張を,平気でインターネット上にて繰り広げられる,ある意味で,頭のおかしい人*3は,まだまだまれな存在にしても,1年を振り返るたび,搾取や理不尽を変えようと主張し,かつ,行動する人が増えてきていて,私としては,まことに頼もしい限りです。とりわけ,資本労働市場における苛烈な搾取,理不尽なパワーバランス,枚挙に暇なしのハラスメント,果ては,賃労働から解放されてなお,各種宴会の強制参加やら,幹事業の強制やら・・・どれもこれも,私が労働市場に身を投じて 14年,ずーーーーーっと,ひとり主張し続けては,白目で見られてきたことばかりです。「お前,働くことに向いてないよ」「うるせえ知っとるわボケェ!!働きたくねえから 10億よこせや!!!」といった感じで。
労働市場で 14年,そんな争いばかりしてきた私ですが,ようやく,時代が私に追いついてきた・・・というのは,さすがに,うぬぼれが過ぎるでしょうが,どうせ金目当てで,仕方なく働いている人がほとんどなんだ,それ以外のことはほっといてくれというのは,至極当然のことのように思います。かくいう私自身も,賃労働なんて「金と労働が割に合うかどうか」ということしか考えていませんから,それ以外のことにまで,いちいち,首突っ込まれたいわけがないじゃないですか (そもそも「働かなければそれが最高」というマインドが,1mm たりともブレない人ですし)。と,だいぶ昔に「金と労働が割に合わない」苦情を訴えたら,前職の部長が騒いでいたのを思い出しましたが・・・それ,まさに,おまいら上者共が,片時欠かさず (「コストパフォーマンス」やら「生産性」という名で) 考えとることやないかい。
私自身,今年 1年を振り返っても,やれ,無駄に忙しいだの,毎日,片時もなく具合悪いだの,毎日,1秒たりとも働きたくないだの,10億あったら,ただちに廃業して,3年くらい (療養のために) 引きこもりたいだの,なーーーんも主張が変わっていないため,こんな無駄な原稿に時間を使うくらいだったら,しんどいなりに寝てたほうがマシだと,何度も考えたもんですが・・・しかしそれでも,「闘わなければ社会は壊れる」ということだけは,何度でも,毎日でも主張しておかなければならないと思います。世の中は,平成から令和に変わったから変わるのではなく,世の中に生きる人々の意識と,行動の変化によってのみ変わるものです。現状に甘んじたら,そこで試合終了。現在享受できる権利は,いつの時代も,上級国民と下級国民の闘いによってのみ獲得してきた,まさしく血の歴史です。この現実を直視し,底辺国民なりの意地を見せてやりますよ。
社会的強者と闘う人が増えてきた一方,まだまだ,強者に忖度し,おもねる人も少なくないですが,私見では,後者の考えかたが,悪い意味で目立つようになってきた (強者に忖度してて,まだ,おこぼれに預かれるとでも思ってんの?という) ような,そんな「風の変化」を感じる年でもありました。私は別に,日本人だの世界人類だの,無駄に大風呂敷を広げるつもりは毛頭ありませんが,老若男女や人種にかかわらず,資本の搾取や世の中の理不尽に対して,きびしく対峙するか,それとも,あきらめて搾取の軍門に下るか,たったそれだけのことじゃありませんか。そこには,風呂敷も何もなくて,同じ志をもった同士が連帯できるかどうか。それしかありません。
ここで,別に,時のグレタ嬢を引き合いに出す必要もないのですが,あくまで一例として。「このガキが偉そうに」などと,彼女を揶揄する声も少なくないですが,私に言わせれば,「そんなガキに,ここまで言われている大人が,何もできないばかりか,揶揄までしていて恥ずかしくないのか」としか思いませんね。まったく,私自身も,若い世代にそこまで言われて,何もやらずやれずで,生き恥晒しもいいところですよ。これは別に,環境問題や SDGs だけではないですよ。学問の自由に対する不満,労働の搾取に対する不満,理不尽な格差と将来不安,若い世代が挙げる声を,時に揶揄し,時に嘲笑に付す (もちろん,対策なんか一切示さない) だけの大人って,いったい,何様なんでしょうかね。何も示せないのは,百万歩譲って,お得意の「俺 (私) たちには,そんな余裕なんてねえんだよ」の一言に譲るとしても (本当は「余裕がねえんだよ」という声を,若者たちに率先して,支配階級にぶつけていって当然なのですが),最低限,行動する若者たちを邪魔することだけは,厳に慎まなければならないでしょう。
一方で,世の中を生きやすくする主張とは正反対に,世の中を生きづらくする声が高まっていることも懸念しています。昨年のご挨拶にて,「すべては『余裕のなさ』のせいだ」ということで片付けてしまいましたが,1年たった今,まったく残念なことですが,それ以外の理由が考えつきません。考えてみれば,すぐわかると思うのですが,接客相手を無下に怒鳴りつけたり,子供の声がやかましいとけしかけてみたり,挙句の果てに,除夜の鐘までやかましいと文句をつけたところで,あなたの生活が,1mm でもよくなりましたか?それこそ「ルサンチマン中二病」の典型例ではないですか?

はっきり言って,現状の格差,否,階級と分断は,「ピラミッド」などという形では表現できません。言うなれば,とてつもなく広大な底辺の土台の真ん中に,東京タワーのような細長い塔が立っている,そのくらい,強者と弱者の格差,階級,分断が深まっています。もはや「ピラミッド」の体ではないですが,この状態は,決して安定的でないことは確か。ピラミッドはピラミッドで,底辺の側が多いことに変わりはないですが,現状が「土台の上にタワーが乗っているだけ」だととらえるならば,支えている土台が,怒りの地鳴りなり風を巻き起こせば,案外,タワーが崩れるような気がしてきませんか?
もっとも,自らを「底辺国民」だなどと,高らかに宣言する人は,おそらく,ほとんどいないでしょうし,(実態はともかく) わざわざ意識する人も少ないでしょうし,そんなこと,いちいち考えなくても,毎日,それなりに幸せに生きている人も多いのでしょうけど,世の中,そんな人たちばかりでもないんですよ。むしろ,生きづらさを抱える人たちが (たぶん,昔から数は増えていないんでしょうけども),どんどん,自ら主張を発信していって,「目立つ」存在になってきている。38年間のすべてが,生きづらさしかない私にとって,近年の「主張する人たち」ほど心強い「風の変化」はありませんし,だからこそ,生きづらさからの解放をあきらめないための,不断の努力だけは続けていきたいと思います。努力が嫌いな私とて,資本に対する労働意欲の 5,000兆倍はありますからね。
格差といえば,もうひとつ,障害と切っても切り離すことはできません。近年でこそ,発達障害がよく取り上げられるようになり,当事者としては心強いところもあるのですが,同時に,かなり気がかりなこともあります。当事者でないと,なかなか気がつかないところかもしれませんが,発達障害のいい面ばかりが取り上げられすぎていて,そんな,いい面なんて何もない,本当の障害だけしかない人たちの立場が,ますます悪くなるのではないかと。本当は,発達障害のいい面をもっている人は少数で,大多数の人たちは,障害だけしかない,肩身の狭い,生きづらいという苦悩を抱えていることを,もっともっと掘り下げ,発信していく必要があるでしょう。発達障害で,こんな素晴らしい能力が発揮されていますという紹介は,むしろ「例外的なケース」として扱うくらいのほうがいいものと考えます。これは,発達障害だけでなく,あらゆる障害について言えることですが,あんまり,障害を美化しないほうがいいということは,当事者が置かれた現実問題として,これからも訴え続けていきたいと思います。

さて,痛勤と理不尽の闘いに,元来の不眠と虚弱な身体も相まって,過去最高レベルに疲労困憊の 1年でしたが (正直,こんな原稿に時間をかけるくらいなら,その時間を,寝て過ごしたいくらい)・・・やっぱり,好きな Live にも影響してきましたね。薄々どころか,痛烈に感じてはいたんですが,さすがにしんどい・・・とまで感じられることは,実によくない。早急に改善が必要な事態です。
最初の Live から,14年10ヶ月が経った 2019年7月18日,千葉 LOOK にて,通算・1,000公演に到達し,その後も,あれよあれよと増え続け,この原稿を書いている 12月23日時点で,年間・130本 (通算・1,061本),業務拘束やらインフルエンザやらで,リタイアがなければ,幕張のカウントダウンまでに,年間・136本 (通算・1,067本) までこなす見込みになっておりますが (そしておそらく,見込み通りに達成するのでしょう)・・・なんというか,数をこなせばいいというわけでは決してなくて,1本 1本に何を感じ,何を得られるか,そうした「参加することに意義があると言えるだけの感度」が衰えてきていることを,率直に感じずにはいられませんでした。Set List が覚えられないくらいは,まあいいとして (書けば済むだけ,覚える必要なし),そもそも,事前に曲の予習をしていても,曲自体が頭に入ってこないとか,実はこれは,相当に深刻な事態で・・・興味と関心に身体がついていかない,やっぱり,慢性的な疲労が原因なんでしょうか。自分でも,完全にオーバーキャパであることがわかっていますし,それこそ「身の丈に合った形で」やっていかなければと・・・
来年こそは,東京オリンピックパラリンピックの壁もあるでしょうし,正直,今年の半分・・・いや,4割でもいいや (4割でも 54本,週1 ペース以上)。まあ,今までの傾向からして,そうもいかんだろうとは思いますが・・・そもそも,職場の土地によっては,Live 活動自体,どうなるかわかりませんので (西大宮をはじめ,首都圏に,永久にいられるとは言ってない),常に注視しておく必要はあるのではないでしょうか。と言いつつ,もうすでに,少なくとも 6月まで,Live の予定が入っておりますが・・・ちなみに,1,000公演・到達の時点で,コラムの 1本も書こうとしたのですが,500公演・到達のときと何も変わっておらず,あえて書くほどのほどでもないかなと思って,やめてしまいました。というより,当時,1ヶ月に 14本とか 15本とか,そんなペースで通っている最中での到達で,書いている暇も何もあったものじゃなかったですしね。
その一方で,15年で 1,000本以上の Live をこなしてきて,ようやく「Live 会場にいる自分が好き」「Live 会場で,ありのままの自分でいたい」という感覚がわかってきたことは,とても尊い収穫でもありました。この 15年間の活動で,Live 活動を共にする仲間が増えたかといえば (0 とは言いませんが) 皆無ですし,そこに価値を見い出すような人ではありませんが,先に書いたように,38年間,一瞬たりとも「生きづらさ」を忘れられない,人生の 99% が,コンプレックスと絶望感しかない私にとって,Live の現場にいる時間だけは (生きづらさを感じながらも) 大丈夫だという,ある種の安心感は・・・おそらく,今までも感じていたとは思うんですけども,ここにきて,いよいよ「自意識として」もったということは,この 15年で,一番の喜びでありました。こうして得られた糧を,今さら手放せるものなんだろうかという不安もありますが,こんなペースで,いつまでも Live 活動を続けられるはずがないことも確か。来年以降も,できるだけ続けたいと思いつつ,まずは,とにかく「身の丈に合った形で」やっていこうということで*4・・・

それにしても,いったいどうして,こんな数に?130 だの 136 だのって,下手すると「本業の人」より多いかもしれない数だぞ?!まあ,曲も知らないのに,なんとなく,雰囲気だけで券取って・・・ということもあるくらいですから,減るわけないですよねえ・・・と,まさに,この原稿を書きはじめた当日,サイダーガールというバンドのワンマンの券を (2件も) 取っておきながら,その後,You Tube の映像を観て,はじめて「野郎バンド」であることを知ったときには,たいそうショッキングでありましたが (バンドからすれば,ある意味で「狙い通り」なのかもしれませんが)・・・男女比が 5 : 95 の私にとって,野郎ミュージシャンなんて,ほぼ未開の地,それはそれで,面白いんじゃないでしょうか。事実として,雰囲気だけで券取るところまでいったんだし。
・・・なんてことは,さすがにレアケースだとしても,私自身がみてきた人たちが,活動休止,解散,引退といった事態に直面したとき,それはそれで,長くみてきた人たちほど,やっぱり,ショッキングなところもあるわけですけども,一方で,新しい人たちがどんどん入ってきては,新しい風を吹かせてくれて,とにかく,途切れることがないんですよねえ・・・途切れるどころか,「開拓したいんだけれど,オーバーキャパで開拓待ち」状態になっている人たちを,常時・数10組も控えている現状では,およそ,Live が減るということは考えにくいです。開拓できないまま,表舞台から去ってしまうこともたくさんありますし,ようやく開拓の時を迎えたと思ったとたん,終わりを告げられてしまうことも少なくありません。もったいないことではありますが,どうにも,ショボい心身で回しきれない程度にやっているもので。つくづく,体力と知力のキャパが大きい人がうらやましい。
さて,こうしてみると,あることに気がつくと思います。そう,私「万事にわか」なんですよ。よく「おれはクラスタじゃない」というツイートをしますが,あれは決して,ただの様式美などではなくて,本当に「にわか野郎」で,詳しいことは何も知りませんよということを,かなり本気でアピールしているんです。はじめての Live で,グループであれば,メンバーを知らずに行くことは当たり前で,メンバーの顔と名前を,半年 ないし 1年かけて覚えていくような人ですので (曲だけを先行させていますので,「曲先」とでもいいましょうか)。そもそも,日々の生活が「痛勤と残業してるか,定時で逃げて Live に行ってるか」の生活しかって送れていないものですから,世の中のトレンドも何も,わかったもんじゃないんですが・・・その意味では,「にわかのレベルにすら達していない」かもしれませんね。
元来,好きなことにすら飽きやすい私が,15年もの長きにわたって Live 活動を続けてこられた理由は,おそらく,この「にわか精神」にしかないですし,「にわか活動」を 15年も続けていれば,素敵な景色が見えてきたり,なにより,生きづらさを抱える自分自身の「生きる拠りどころ」になってくることがわかってきます。それでもなお,「守るものも失うものも何もない」と言い切ってしまえるあたり,なんだか,矛盾しているような気もしますけども・・・まっ,いいか。Live がなくても,公共放送があるじゃない,あれ,他にもいろいろと,手つかずのネタg(ry
ところで,130 だか 136 だか,そのくらいの本数の Live に行っておいて,ランキングとかないの?という話もあるかもしれませんし,年の瀬になると,1年を振り返る形で,多くの場合,個人・団体を問わず,よくランキング化していますよね。私,あれがどうも苦手で・・・というより,席次をつけられるほど,真剣に観ていると言える自身がないんですよねえ (・・・あっ,つい言っちゃった)。えてして,主に観る側の体調もありますし,場内の雰囲気もありますし,Set List の好みもありますし,ステージのよしあしだけでは測れない尺度が多すぎて,いったい,何を根拠にランク付けするのか,そのランキングは,胸を張って表明できるものなのか,上位と下位の違いは何なのか,なにより,自分の生きる拠りどころに対して席次をつける行為は,自分の生きる拠りどころを奪うことになりはしないか・・・などなど,いつも悩んでしまうんですよね。だいたい,観ている側の体調が (いつもだいたい) 悪かったからって,ランクを下げるとか,なんだよって。ですので,自分でランク付けすることも避けていますし,人がつけたランキングも,ほとんど参考にしていません。自分でいいと思ったら,それが 1位でなくても「1位みたいなもの」でええやんと。そういう意味では,絶対に,ライター稼業なんてできないんですけども,前からさんざん言っているように,そこは「好きを仕事にするなかれ」というポリシーに,忠実に従うということで。

・・・ダメだ。高々 1,2日で,やっつけで思い起こそうとしても,だいたい,去年と同じようなことしか思いつかん (去年と同じなら,去年のを読めばいいだけだし)。ていうか,思い出す以前に,とにかく「多忙」と「疲労」の言葉しか出てこないわ。今さら,事案の一々に触れて書くつもりもないにしても,事案の一々すら思い起こすことができないという事案こそ,悲惨の一言に尽きるわ。
本来なれば,日々,感じたことを書き留めておいて,そこから,何を主張していくかを吟味・・・吟味まではいかないまでも,書き留める「余裕」すらまったくなかったというのは,「余裕」の話題を主張した去年からすれば,いったい何をやっていたんだ,という批判があって然るべきでしょう。こんな「余裕」すらもてない状態では,とても「健康で文化的な生活」を営んでいるとは言えませんので (まず「健康」自体が,完全に崩壊してるし),職場の廃業や,Live 活動の見直しも含めて,いよいよ,新たなアクションを起こしていかなければならないでしょう。
それにしても,廃業だの,Live 活動の見直しだの,近年になく,具体的に物騒な話も出してまいりましたが (いや,毎年言ってる気がするけど,今度こそ本気でという意味で)・・・心身の健康が,それこそ「命の危険が迫っているレベルで」蝕まれてきている以上,やはり,変える勇気をもってアクションを起こす,待ったなしの段階にきているということで,あえて,ここに宣言しておくことにしました。もちろん,職場の誰にも,具体的な話は伝えていませんし,いわんや,実家家族を含む,誰からの承認も受けていません。
ただ,このご挨拶の時点で,「いつまでに」「何を」「どのように」変えるかまで宣言してしまうと,コケたときの影響が大きいので,そこは,まあ,来年のご挨拶でということで・・・

来年のご挨拶は,果たしてあるのか?!
いや,正直もう,不毛すぎて,なくしたいんだけど・・・

*1:いつの間にか,blog の名前が「まだ仮想通貨持ってないの?」に変わってました。消耗しないで仮想通貨ですか・・・それもいいか。

*2:参考:内田樹の研究室 - 日本のシンガポール化について (2013/8/20)

*3:ただし,主張そのものは,間違っているとは思いません。みんなが言わない (言えない) だけのことで,ただ単に「おかしいことはおかしいだろう」と言っているだけのことですから。

*4:それ以前に,一瞬たりとも「生きづらさ」を忘れられないだの,人生の 99% が,コンプレックスと絶望感しかないだのといった現実を,どうにかして変えていったほうが・・・というのは,野暮な話ということにしておいてください。