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年末の御挨拶 (2018)

「女をソープに沈めたりとか」
(NHK Eテレ 「ねほりんぱほりん・元極道」 2018/11/7 O.A. より)

私は,断じてクラスターではありませんが,NHK を長く観ている奇特な視聴者からみて,おそらく,空前絶後の名字幕となりましょう。
今年も,この字幕のように,エッジの効いた,スパイシーすぎる 1年を送れた・・・いや,エッジもスパイスも効きすぎて,とにかく,疲労困憊の 1年でありました。
だいたい,本当の年末になると,幕張に出たり入ったりしているうち,DANJiRi のうちに年を越し,死んだように帰ってきて行き倒れる始末でありますゆえ,今年も,12月2日から書き始めているのですが (実際に進められたのは,せいぜい 2日間程度)・・・もうすでに,12月のはるか前から疲労困憊が過ぎて,風邪やら虫歯やらも重なり,長らく,原稿用紙・1枚で止まっていたものを,ギリギリになって (風邪も治らぬうちに) 徹宵まで決め込んで書いているていたらくであります (しろめ
―――と,そのように書いている時点で,もうすでに (400文字) 原稿用紙・1枚で済ませる気などないことが明らかな感じもしますけども・・・はっきり言って,今年も無駄に長いだけで,何の実もない散文ですので,12月31日と言わず,3日早い 12月28日に公開させていだきました。どのみち,私自身も,28日から COUNT DOWN JAPAN (CDJ) で,いかなる文を書いている余地もないですし,31日なんて,年の瀬も年の瀬のクソ忙しいときに,16,000字にも及ぶ無駄文を押し付けられても,誰も読まないでしょうし。

以下,「続きを読む」リンクが見えているかもしれませんが,誰も「続きなど読まない」ことを前提として,無駄に長いだけの空虚な挨拶文が,延々と続きます。各位に於かれましては,何卒,貴重な時間を無駄にされることなく,充実した年の瀬に年越しをお過ごしくださりますよう。何かの間違いで,紅白やら,ケツバットやら,ニュースハイライトやら,大相撲 この一年やら,西郷どん 総集編やら,半分、青い。 総集編やらに飽きたとしても,合間に開いて読んではいけません。何かの待ち時間であれば,ぜひとも,他の何かを読んで過ごされますよう。
今年も 1年,ありがとうございました。


―――今年を振り返るにあたって,あえて,漢字や数字でなくてもいいんですけども,今年の漢字は「疲」,今年の数字は "116" を挙げさせていただきます。
"116" は,のちほどとして,「疲」・・・これはもう,文字通りに「疲」しかありませんでした。事実,これを書かんとしていた 12月の上旬から中旬にかけて,ひどい風邪と虫歯を同時にやらかし,当初の予定日までに書くことができず,大幅に遅れている原稿を挽回すべく,今まさに,朝までかかる覚悟で書いて・・・決して,そんなことしてまで書くほどのものものでないことは百も承知にしても,24時間・365日,もうずっと疲労困憊という感覚です。
過去に,体力そのものが,一般男性の 1割くらいしかないとか,他でどう挽回しても,体力で全部落ちてしまうとか,そんなことも書いた気もしますけども,「1割」というのが,あながち大げさでもないことは,何度強調しても強調しすぎることはないことを痛感する 1年でした。私の主治医 (頭痛外来) からも「身体を鍛えなさい」と指導される始末・・・なんですが,そもそも「身体を鍛えるだけの体力」の確保すらおぼつかない状態です。通勤に勤務だけで,とぐろターb・・・リキロングゴールド (これ,いつの間に廃盤になったん・・・) を 1日に 2本飲みが標準という時点で,いかに「普通の活動なのに無理」しているかを自覚しています。
それにしても,なんでこんなことに・・・異常に体力に乏しいことに加えて,致命的な「不眠」,これに尽きると思っています。いや,まともに寝るための時間すらとれないことが,真に決定的な致命打となっています。あまりの不眠ぶりに,fitbit (活動量計) を導入して,客観的に,実効睡眠時間と状態を記録するようにしてみたんですが (これだけのために買った fitbit,18,000円くらいだったかな)・・・客観的記録という事実は,実に残酷なもので,実効睡眠時間で,毎日 4時間くらい,5時間あればいいほうだという・・・これはダメだろうという,衝撃の結果が。よく「オフトゥンに入ってから出るまでの時間」を「睡眠時間」としている人がいますけども・・・とんでもないことですよ。それこそ,オフトゥンでスマートフォンでもいじっていても,睡眠時間としてカウントされてしまう。もちろん,そんな悠長なことをしているわけでもないですが・・・オフトゥンに 7時間入っていても,実効記録が 5時間台などということはザラにあって,実効時間で 6時間を目指すならば,実際には 7時間半くらい,オフトゥンの中にいる時間をとらないといけない *1。しがない「埼玉都民」にとって,そのような時間が,いったい,どこにあるというのでしょう。
埼玉都民・・・そうです,不眠による疲労を 2倍増しくらいにしてくれている存在が,弊職場の移転に伴う,往復 3時間半の通勤時間です。あまりの長さに耐えかねて,家から駅まで自転車にして (駐輪場のショバ代は,もちろん自腹,事実上,手取り・1,800円の減給じゃねえかよ) 抵抗してはいるものの,これまでの片道 45分が 1時間半に・・・新卒で就職してから 2年9ヶ月ほど通っていた,亀戸から蕨に匹敵する長さです。しかも (亀戸から秋葉原は「別格」だったにしても) 都心からの逆通勤から,都心への順通勤ですよ。西大宮はともかくとして,大宮から東京都心へ,日々の通勤ラッシュ時の混雑ぶりは,今さら,新参者の私が語るまでもないと思いますが・・・こんなしんどい思いをしてまで,日銭を得なければ暮らしてゆけぬ埼玉都民の悲哀ぶりが,つくづく嘆かわしいと,いざその立場になって,ひしひしと感じています。いや,神奈川都民,千葉都民,果ては,茨城都民も同じか*2
就職したての若いころからの通勤,否,それこそ小学生のころから,通学で,このような満員電車に慣れていればまだしも,37歳にもなって,満員電車に押し込められる日々がやってこようとは・・・会社辞めたい,ありとあらゆる労働を廃業したいと思わない日は,1日とてありませんでしたが,ここにきて,いよいよ「廃業届」も秒読みかといったレベルまで迫ってきています。実際,弊職でも,わずか 3ヶ月の間に,3割もの廃業者が出ましたしねえ・・・率直に言って,弊上長が変わっていなければ,私も今ごろ,とっくのとうに転職活動でも進めていそうなところ,過酷な通勤と引き換えか,このたび 10年ぶりに,というか,弊社に入ってはじめて,無駄に上長が代わってしまい,無駄にユルくなってしまったもので,無駄にバランスがとれて・・・どのみち「労働者階級」である限り,痛勤という名の通勤は避けられないでしょうし・・・難しいですな。
いずれにしても,37,8 にもなって,あんまり,進退でダラダラしていてもしょうがないですし (独身だし,失うものも何もないし)・・・進退については,自身と周囲の状況を注視して,適時・適切に判断していこうかと思います。まあ,一刻も早く,ありとあらゆる労働から解放されたいという気持ちだけは,24時間・365.24日,死ぬまで,絶対に変わることはないですがね。5,000兆円もいらないので,一生遊んで暮らせる程度でいいので,10億円くらいください。NISSAN ゴーン前会長の報酬から,10億円くらい,簡単に横流しできませんかね。って,大マジメに,こんなことを考えているから,困ったものですが・・・じゃあ,宝くじなる公営ギャンブルが,なぜ存在しているのか,効率の悪い (絶対に胴元が儲かる) 賭け事だとわかっていながら,なぜ,人々が銭をつぎ込むのか,なぜ,素人には勝ち目がない投資だとわかっていなから,株や為替に手を出す人が後を絶たないのかを考えれば,裏に「さっさと大金せしめて,仕事辞めたい,一生働きたくないわ」という,人間的に,実に正当な下心があることは自明。あながち,批判もできないのではないでしょうか。AI とロボティクスの台頭で,働きたい人だけが,道楽で働けばいいんですよ (それは,もはや「労働」とは言わないでしょうが),と言えるようになる時代の到来まで,あと何年かかるんでしょうか。
・・・あれ?いつの間にか,仕事というか,移転の文句に・・・ともかく,埼玉都民にとっての通勤だけは,百害あって一利なし*3。事実,通勤時間と睡眠時間には,完全に,負の相関関係があることがわかっていますしね。もしかして,30代・男性の埼玉都民の睡眠時間が 4,5時間なんて,常識のような感じなんですかね?ちゃんと調べてないですけども,ちょっと残業して往復通勤の生活をすれば,すぐ,4,5時間睡眠になっちゃいません?私に言わせれば,だからどうしたという感じですけども・・・ともかく,私の体力では,どうしたって,実効時間で 7時間はないとダメなことがわかっているのに,現実的にそんな時間がないから,4,5時間で耐えろと言っても・・・無理な相談です。いずれ破綻するでしょうし,毎日,そのときの突然の到来が怖いんですけども。
―――こんなことを書いているだけで,もうすでに,だいぶ疲れてきました。本当のところ,高々 10日にも満たない程度の休みで「リフレッシュ」なんてのを強いられるのは論外で,月単位と言わず,年単位で休業して,心身をきちんと立て直したいところなんですが・・・つくづく,あらゆる面において「余裕のない生活」の憎たらしさを思い知らされます。

「余裕のない生活」という話が出てきたところで,この「余裕のない」状況と,私が世の中に対して感じている率直な怒りを,少し,表に向けてみたいと思います。
平成の 30年,とかく「失われた 30年」と揶揄されていますが,いったい,何が失われたというのか。私自身,なによりも,人々の「『余裕』が失われた 30年」だと思っています。長年の定説「お金の余裕は心の余裕」だけにとどまらない,時間,健康,人間関係,あらゆる側面において「余裕」が失われた 30年という感じがします。
取るに足らないことが許せないのも,ちょっとした失敗が,鬼の首を取ったような事案になってしまうのも,ささいな投稿が炎上沙汰になってしまうのも,満員電車の中で,リュックひとつ背負うことが許されない空気感も,本当は,リュックごときではなく,まったく解消の見込みがない満員電車の存在そのものに向いていないのも,景気回復を「期間」と「伸び率」の区別もつかずに「実感がない」と騒いでいるのも,(主に,賃金と生活水準の格差拡大で) 隣の芝生が青く見えてしまうのも,誰が楽して,誰が苦労しているだの,俺が,私が一番の苦労人だと騒ぎ立てているのも,実は,もうすでに「1% の勝ち組と 99% の負け組」に分断されていることに気づいていないのも,俺も私も隣の芝生も,みんな「99% の負け組」に属していながら,なぜか「中途半端な勝ち組」に属しているものだと錯覚してしまうのも,負けているのに,負け組を蹴落とすためだけに存在する「1% の勝ち馬」の背中に乗ろうとしてしまうのも,1% の勝ち馬を肥やすためだけに存在する現政権と財界を,負け組が (自身が) 負けと知らずに支持してしまうのも,それでも支持していれば,いずれ,経済の原理的に起こりえないトリクルダウンで,何かの恩恵が降ってくると信じ込んでしまうのも,私自身も当然含まれる「99% の負け組」同士で諍 (いさか) い争い,無用な社会の分断が進行してしまうのも,みーーーーーんな「余裕がない」の一言で説明できてしまう。「余裕がない」という言葉こそ,平成という時代が生んだ,最大にして最凶・最悪の流行語であるものと,私は断言します。本当に,恐ろしいことです。
そして,このような「余裕がない」状況下は,「余裕たっぷりの」支配者にとって,これ以上ない,きわめて好都合な状況でもあります。自らは巧妙に手を下さず,下々の者同士でジワジワと余裕を奪いあわせて,人々を追い詰めていけば,戦わずして,我が思うがままに支配できるんですから。この事態は,どこかのフィクションの脚本で起きている話ではありません。現実の世の中で,今まさに,現在進行的に起きている事態なのです。
世の中的に,ホットワードになっている「働き方改革」とやらで,いくばくかの「余裕」でも生まれればいいのですが,本質的には,「余裕たっぷりの」支配階層による,資本主義的な利益至上主義経済であること,そんな中にあって,人間の価値そのものを「生産性」で測らんとすることがトレンドになっている限り,どうにも,明るい展望はもてそうにありません。このあたりの話は,また来年,様子をみながらできればと思います。なんせ,私自身が「自主的働き方改革」によって,所属する会社なり組織そのものが,変わっているかもしれませんしね。

そのような厳しい状況もあって,「多様性を認める」ということは,思った以上に険しい道のりであることを痛感した 1年でもありました。私自身,自分の面倒ひとつみる余裕さえない状況にあって,多様性を認めるだけの余裕などまったくないという現実は,率直に,自らの考えの甘さを認めて,陳謝しなければなりません。本当に,本当に申し訳ありません。さまざまな人々のさまざまな考え,個人がもつ特性,それはときに,障害であったり,特殊な能力であったり,それらを肯定したり否定したりすることはあっても,存在そのものは認めなければならない。多様性を認める「イロハのイ」にあたるところでさえ,日々の余裕のなさゆえか,ままならずにいます。半径 5メートルの世界でさえ,「職場の奴の咳ばらいがうるさくて,やろう,ぶっころしてやる」と,毎日,本気で思ってしまっている時点で,まったくもって失格です。その存在そのものを消そうとしているんですから。たかが「咳ばらい」にも耐えられないくらい,心身ともに追い詰められているのかといえば,その通りなんですけど・・・本来,その心身の状態こそ立て直さねばならぬところ,邪魔な存在を消そうという憎しみにいってしまう。われながら,嘆かわしいことです。
半径 5メートルの世界のことも片付けられぬ人間に,これ以上,大きな話をする資格もないでしょうが,多様性を認めるためには,認めようとする側に,認めようとするだけの余裕が,どうしたって必要です。余裕が失われた世界では,知らず知らずのうちに,多様性を排除していき (というより,排除せざるをえない状態に追い込まれていき),利己主義と分断が進行していくことは自明なんですが・・・恐ろしいことは,それが,あたかも生活習慣病のように,まさに「知らず知らずのうちに」,ゆっくりと進行している点にあると感じています。1日,1週,1月,半年,1年程度では,それほど感じられなくとも,平成の 30年間を振り返れば,どれほど「余裕の格差」と「排斥と分断」が進行したことか。そりゃあ,形の上では,男女平等だの,外国人の受け入れだの,なんとなく,進歩もあったようにみえなくもないですが・・・それはまだまだ,ごく一部の「余裕のある」あるいは「無理やりにでも余裕を作っている」人たちの話であって,実態は,ほとんど進歩していないどころか,ますます悪化しているとしか思えないのです。平成の 30年間で,通信事情が飛躍的に進歩した結果,よくも悪くも,人々の思考や行動の「見える化」が進んだことも,皮肉なことに,「余裕の格差」と「排斥と分断」の悪化を実感させる要因になっていると思います。
私が,もっとも懸念しているのは,ほとんどの人が,余裕のなさに対する怒りの矛先を,あさっての方向に向けているという点です。私自身,ヒエラルキーの最底辺にいる者として,これは,死ぬまで訴え続けますが,怒りの矛先は,ヒエラルキーの頂点たる支配者に向けて,徹底的に闘わない限り,何も変わることはないのです。やれ,闘うことがダサいだの,カッコ悪いだのと揶揄すること自体は,思想の自由もあるとは思いますが,負けているのに支配者に迎合する,あえて,長いものに巻かれてやろう (あわよくば,そのまま,支配者に取り入って・・・グフフ) という行為は,ほぼ確実に未遂に終わるばかりか,支配者をつけ上がらせ,我々,被支配者階級の自由と余裕を,ことごとく奪うことに加担する,最悪の行為です。いい加減に,「階級社会の現実」から逃げることなく,厳しい現実に真摯に向き合い,厳しさの原因元凶たる支配階級の横暴の数々を,厳しく弾劾していかなければなりません。
私は,思想の左右に興味などないですし,はっきり言って,世界一,愛国心のかけらも持ち合わせない人間ではありますが,おかしいことをおかしいと言って,何が悪い。著名人が「政治的 (とされる) 発言」をすることが,ごく自然のこととして受け入れられないこの国の異常さは,いったい,なんなんだと。好き嫌いは当然あるにしても,すべての人に,発言の自由は保証されなければなりませんし,著名人だから黙らせるという風潮があるとすれば,それこそ,多様性の「た」の字の一画目さえ認めていないことになってはいませんか。
そういえば,最近「日本はもう『民主主義国家』ではなく『金主主義国家』になってしまった」というコメントをし見かけました。どこで見かけたか忘れてしまいましたが,うまいことを言ったものです。「お金の余裕は心の余裕」は,余裕の中でも「イロハのイ」であることは間違いないですが・・・大金持ちとされる人々にあっても,およそ,大金持ちにふさわしい心の余裕があるとは思えない失言に失態の数々を見聞きすれば,「資本の余裕」だけでは,万事片付けられないことも確かでしょう。

「平成」という年号も,残りあと,4ヶ月となりました。天皇陛下生前退位を発表された時点から,今までもそうでしたし,これから先の 4ヶ月で,これでもかというほど,「平成最後の云々」を耳にすることになるでしょうけども,嫌というほど聞かされても,私自身,不思議と,嫌な感じがしないんです。少なくとも,昭和天皇がご存命であらせれる間は,「昭和最後」だなんて言葉は,どうしたってあり得なかった (完全にタブー視されていた) というのに,今上天皇がご存命であらせれるうちから,「平成最後」だなんて,そういう話ができるようになったんだと,いい意味での,時代の変化を感じられる時間になると思います*4。皇室に興味はないですが,慣例にとらわれない,新しい時代を模索される陛下の英断と人柄には,率直に感服します。生前退位の諸行事に伴い,副次的に,10連休という恩恵もありますしね (実際に休めるかは知りませんが)。
そんな,平成最後にがんばった・・・わけでは,決して,決してないのですが,今年は,いよいよ「首都圏近郊・日帰り限定の Live に通うか,公共放送を眺めているだけの」生活になってしまいました。弊職の移転以降は,公共放送すら,ロクに眺めることもままならぬ始末・・・
最初に書いた,今年の数字 "116".お察しの通り,今年通った Live の本数です (Live Viewing やら,舞台観劇やら,果ては試写会やら・・・そういうのも,これとはまた別にあります)。本稿を公開した時点では,まだ 113本目 (CDJ / Day 1) のはずで,不測の事態が起こって,減ることもあるかもしれませんが*5Preview 版を公開した 12月23日の時点で,2015年に記録した "109" を,もうすでに上回っています。はっきり言って,異常値も異常値です。2015年の「10年に 1度の異常参戦」認定は,いったいどこに・・・あまりの数の多さと過密ぶりに,好きでやっている,楽しいことのはずなのに,今年の漢字を「疲」にせざるを得ないという・・・おまいは,いったい何をやっているのかという暴挙です。さまざまなミュージシャンが,多くの Live を開いてくれた,そこに,私の感性が,たまたまマッチするところが多かった,いわば「当たり年」であったといえば,聞こえはいいですが・・・必ずしも「当たり年」がいいとは限らない,もっと平準化してくれというのが本音です。昨年の挨拶の際に,何を血迷ったか,「ライヴメモ」という形で,簡単なコメントなり感想なりをつけてみますといって,実際に書きはじめてみたものの,半年くらいで,あっさり頓挫してしまいました。なんせ,6月に,先に述べた弊職の移転に伴い,通勤時間が激増すること,そんな中にあって,書いても書かなくてもいいようなことに,とても時間を割いていられる状況になくなってしまったこと,そうでなくとも,7月の時点で 14本の Live が控えていた時点で・・・ああ,これは無理だと。
結論から言って,早々に撤退しておいてよかったと思います。ただ,高々 50本程度とはいえ,書いてみたことが無駄だったかというと,それもまた違っていて,この程度のことしか書けないんだということを (薄々知りつつ) 実際に書いてみて,あらためて思い知りましたし,そもそも,Live の何たるかを伝えることに,つくづく向いていないということも (そうだろうなとは思いつつ) 実際に書いてみて思い知りましたし。書かないままに,なんとなく思っていることを,実際に書いてみて思い知るという経験自体,自らの血肉に刻んでおいてよかったと思います。まあ・・・はじめた時点で 800 以上も通ってきて,何を今さらといった感じはありますけども。

私が書いているものは,もっぱら「ライヴメモ」という名の「メモ書き」であって,間違っても「ライヴレポート」ではないのです。そもそも,そのような高尚なもの,私に書けるはずがないのです。理由は・・・書くだけの時間がないとか,バックグラウンドとなるだけの知識がないとか,批評的・論理的 かつ 読み手の感性に訴えかけるだけの筆力がないとか,そのような言い訳は,誰にでもあると思うんですけども・・・実は,時間や知識や筆力は,がんばれば,まだ,どうにかなるものだと思うんです。よっぽど適性がないことがない限り,私くらいの文は,中学生程度であれば,誰でも書けなければならないと思いますし,最低限の教育の責任だと思います。率直に言って「こなみ」(小学生並みの) レベルですし。
―――では,「ライヴメモ」にしかなりえない,決定的な理由は何か。身も蓋もない言いかたをすれば,集中力が極度に乏しく,ステージの内容が,ぜんぜん頭に入らないのです。
   な ん じ ゃ そ り ゃ
そんなんで,これまで 930本もの Live に通ってきて,恥ずかしくないのか。それこそ,銭と労力,人生の無駄遣いじゃないのか・・・余計なお世話ですよと言いたくなる気持ちもあるところ,率直に言って,われながら,ちょっこし,もったいないなあと思っていたりもします。哀しきかな,本当の「障害」とは,業務や日常の諸事はもちろん,好きなことに対してですら,容赦なく犠牲になってしまうのです。
しかし,ステージの仔細を覚えていられるだけの集中力はなくとも,少なくとも,その場に私自身が存在して,非日常の空間を生きたという証だけは,これまで,ただの 1本とて忘れたことはありません。ときに騒ぎ,ときに歌い,ときに歓喜し,ときに緊張感が漂い,ときに涙することさえある。その空間に立ち会えば,必ず,何かしらの「生きた証」を残すことができる。これがあるから,やめられないんですよ。低レベルの自己満足と思われるならば,それでけっこう。業 (なりわい) としないものについて,それ以外,何が必要でありましょうか。
それともうひとつ,プロじゃないのに,無理して「プロっぽく」書きたくないんですよねえ・・・なぜなら,ロクなバックグラウンドも持たぬというのに,表面だけ取り繕ったような「プロっぽい」文を書いたところで,バレる人にはすぐにバレるでしょうし,なにより気にかかるのは,その文章,本当に,私自身の「本心」なのかと。プロの文章,あるいは,プロよりもプロのアマチュアの文章を読むと,本当に深い知識と表現力,筆力でもって,ステージに対する (多くの場合は好意的な) 評が並んでいますが,本物のプロの文章には,そこにも,常に,筆者の「本心」がにじみ出るものです。その点で,ステージに対する「本心」をつづったプロの文章 (プロよりもプロのアマチュア含む) には,本当に感服します。残念ながら,私が同じテイストで書いたとしても,それは「本心」ではなく,せいぜい「本心を,だいぶ脚色して,なんとなくウケそうに狙ったっぽい,実に空疎な心でしかない」ものにしかならないことは,この程度の文しか書くことができない自分が,一番よくわかっています。要するに,身の丈を知り,嘘偽りのない本心を,そのままの表現力で,ありのままに書けばよい,ということですな。プロじゃないんだし。そもそも,趣味でやっているものに,プロ意識も何もあったもんじゃないですな。

―――ついでに,「本心」として申し上げておきましょうか。私自身は,間違っても「趣味」を「仕事」にすることはありませんし,絶対にできません。だって,好き勝手できないじゃないですか。競争がまったくない世界で,チマチマやれるんだったら,まだいいかもしれませんけど・・・物書きの世界なんて,常に他者の文章と比較されて,また別の評が比較されて・・・の繰り返しみたいなもので。私のキャパシティで,そんな「レッドオーシャン」の世界に入れるとは,正直,とても思えません。と言いつつ,業務の話になりますが,なぜか「AI・人工知能を応用した要素技術開発」という,いま,もっとも,レッドオーシャンたる競争の最前線にいるのは,いったいなんでだ・・・
まあ,そのあたりの業務は,ほどほどにこなしておけばいいとして (もうすでに,我々の負けは決まっておりますが,みたいな)。ここで,「ライヴレポート」と「技術報告」(技報) の違いについて,自身の特性も踏まえて考えてみたら,実におもしろいことがわかってきました。前者「ライヴレポート」のほうが,明らかに楽なように感じられるかもしれませんが,実は,後者「技術報告」(技報) のほうが,明らかに楽なんです。正直,技報を書く業務が,いっちゃん楽ですね。プログラミングも地獄,英語・他言語も翻訳機にかけるような,本当にひどいていたらくですが,そういうめんどうな業務は,ぜんぶ他の人に任せて,報告だけしてれば楽だろうなあ・・・っていうくらい。
両者ともに,体裁はだいたい決まっているし,書くべきネタも決まっている。最低限の適性があって,訓練さえすれば,どちらも,誰にでも書けそうなものなんですけども・・・「書くべきネタを集める」部分が,決定的に違うことに気がつきました。なぜなら,ライヴレポートは,その場で観た・聴いた・聞いたことが,レポートを上げるための,第一の事実になるわけじゃないですか。そして,その事実は,ことごとく,リアルタイムで刻一刻と過ぎゆくもので,決して,時間を巻き戻すことはできない。その場の集中力がすべてで,私のように集中困難な人には,まずもって適性はありません*6。実況でも同じでしょうか。いや・・・実況はもっと大変か。
かたや,技報においては,まず,リアルタイム性が (あまり) ありません*7。基本的に,日々積み重ねたネタを,体裁として取りまとめるだけですので,集中困難な人が書いても,それなりに形にはなります。考察にしても,筆致にしても,ライヴレポートのようにヘンに個性を出すと,むしろ,嫌われたりもします。この「リアルタイムなネタ」に追従できる適性があるかどうかが,「技報は書けても,ライヴレポートが書けない」事象を生み出しているんだと思います。もちろん,技報よりもライヴレポートのほうが,ずっと難しいですし,「ライヴレポートが書けても,技報が書けない」という人は,おそらくいないのではないでしょうか。
くどいようですが,ネタと知識と筆力さえあれば,レポートなんて,誰でも書けるんですよ。国語をはじめ,ありとあらゆる言語力が壊滅的な私でさえ,技報くらいは,会社的に承認されているんですから (・・・あっ,レベルの低い組織だとバレちゃうことくらいは,百も承知で)。ネタ集めにリアルタイム性があって,集中力がないとできないというのが「ライヴレポート」で,ああ・・・こりゃあ,自分には無理だわということを,あらためて思い知ったのでした。つくづく,「試行的なメモ書き」というレベルにとどめておいてよかったと思います。
ちなみに,年末の挨拶にかこつけて,9月9日の LOVE IS BORN のときから,長らく書けずにいた,大塚 愛さん (姓名の間に【スペース】を入れるのが本流,んなこたぁいいか) と 平賀哲雄さんへの感謝状も書いてしまおう・・・と画策したのですが,ただでさえ長いのが,輪をかけて長くなることから,こちら に移動しました。
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本当に,ただの「公開私信」です。「レポート」はおろか,もはや「メモ書き」ですらありません。

こんなていたらくであるがゆえに,私,よく「クラスターじゃない」という話をするんですけども・・・実際のところ,万事において,本当に「クラスターじゃない」のです。万事において中途半端,100点満点で,せいぜい,50点を上限に目指す程度の熱の入れようで,適当に楽しんでいるだけですのでね。ゆえに,なんにも詳しくないし,なんにも語ることもできもしない。しかしそれでも,音楽 (主に Live の現場) であったり,公共放送が好きであるという気持ちが確かであることに変わりはありませんので,クラスターじゃないけど楽しめた」という事実は,まごうかたなき事実として理解いただきたいところではあります。
―――もっとも,この文脈だと,クラスターとは,知識・経験が豊富であることを前提とするような言いかたになってしまっていて,それはそれで,個人的に好ましいものであるとは思っていません。クラスター=オタク」というとらえかただけはしたくないという気持ちもありますし,「クラスター=オタク」が当該文化を壊してしまう残念な現象も,少なからず見受けられます。私としては,常にライトに,しかし,根底には常にリスペクトをもって (これ重要,というより,これだけが本質的に重要だと思っています),接していきたいと考えています。こうなると,「クラスターじゃないけど」・・・「クラスターってなんだ?」という問いも,当然ながら生まれてきますけども・・・まあ,あんまり深入りしないでおきましょうか。ネタのような本気のような,そのくらいがちょうどいいということで。

さあ,冬の長い夜も,だんだんと明けてまいりました。結局,今年も,病的に生きた 1年であったことを,gdgd と述べるだけの文になってしまいましたが・・・今年の最後を締めくくる一言として,「何かを始めることに,遅すぎることはない」ということを,あらためて,実感を込めつつ申し上げておきたいと思います。
2017年,SMAP の解散に続き,2018年も,安室奈美恵の引退,さらに,小室哲哉の引退といった,一時代に幕を下ろす出来事もありましたし,一時代を築いた名雄の訃報も,少なからずありました。過ぎゆく時代を惜しむ一方で,ELLEGARDEN の復活,三上ちさこ (ex. fra-foa) の復活,こうした時代を超えた復活劇もまた,見逃せないトピックとしてありました。
実は私,両者とも,復活以前の活動をまったく存じ上げないのですが,この際,昔の活動を知っているかどうか,ましてや,それらの活動が,どのくらい伝説的であったかといったことは,実は,あまり重要ではないと考えています (今の時代,調べれば済むことも多いですし,今現在の彼らに,リスペクトがあるかどうかのほうが,ずっと重要です)。むしろ,昔はあーだこーだとか,そんな伝説やうんちくが本当に必要か,それがなければ,新たに好きになる資格すらない,とでもいうのでしょうか。それこそ,当時まだ生まれていない人もいるでしょうし,興味や関心が向いてこなかった人だっているでしょうし,「今日から (ファン) はじめます!」ということが許されてもいいんじゃないか,むしろ,それが健全じゃないかとさえ思えるのです。
ことに,私と同じ世代の人たちが復活することは,それ自体が,生きる希望になるものです。37歳なんて,それこそ「35歳人生限界説」をとうに過ぎて,私なんかもう,人生の神器らしきものなど何もない,人生詰んだも同然の状態ではあるのですが,それでも,誰かを好きになること,何か新しいことに興味をもつことを許してくれる,そのくらいの「余裕」ある世の中であってほしいものです。「何かを始めることに,遅すぎることはない」,いい歳して,このことを冷めた目でみたり,批判的な論評をすることは,もちろん自由ですし,その考えも尊重されなければなりません。ただ,いい歳して,何かを始めることを邪魔立てすることだけは,あってはならないと思いますし,私自身も邪魔されたくないことだけは,新たな活動を始めた,あるいは,活動を再開した人々の名誉にかけても,申し上げておかなければなりません。
―――ところで,人物や物事を批判することは,たやすくできるようで,実は,批判に足る根拠や合理性といった,決して低くないハードルを越えることが必要です。本来ならば,そうあるべきなのですが,単なる好き嫌いだけで批判に結びつけている事例は,枚挙に暇がありませんし,私自身にも,思い当たる節がたくさんあります。一方で,好きであることを伝えるハードルは,何もありません。誰もが納得するような,合理的な理由で好きだというのが・・・あってもいいのかもしれませんけども,完全に自分目線だけで,何かを観て,聴いて,感動して好きになった,それだけで十分じゃありませんか。それを相手に伝えることに,何の迷いもいらないと思います。
そう考えれば,「これはいいぞ」というポジティヴなことよりも,「これはダメだ」というネガティヴなことを伝えるほうが,はるかに難しいはずなんですが・・・巷では,真逆の現象が起きているんですよねえ・・・これもまた,人間の性なのか,はたまた「余裕のなさ」が,越えるべきハードルを無視して,感覚的な批判を受け入れさせてしまっているのか。自戒の念を込めて,注視しなければならないと感じます。

―――あいかわらず,何のとりとめもないまま,ここまできてしまいましたが・・・今年も,どうにかこうにか,無駄な挨拶がかなったようです。
あいかわらず,誰にも読まれることもなく,ひっそりとたたずむだけの挨拶文ではありますが,このあたりで,平成最後の挨拶とさせてただきます (なお,平成31年4月30日から,新元号元年・5月1日に,年号が変わるときの掲載はありません)。

私はこれから,4日間,幕張の地に旅立ちます。よりにもよって,前日に「身内の不幸」の報せが入るなど,最後の最後まで,本当に,波乱に事欠かぬ人生ではありますが・・・この際,自己中でもなんでもいいので,どうにかこうにか,生きて帰ってまいりたいと思います。2019年1月1日・午後7時の「埼玉の奇祭」(第28回 埼玉政財界人チャリティ歌謡祭) 開幕まで,大晦日の紅白はおろか,ありとあらゆるテレビ番組を,一切観られませんことをお許しください。
皆様に於かれましても,どうか,よいお年をお迎えくださりますよう。
なお,年の瀬のこととはいえ,身内の不幸の報せが入りましたるゆえ,新年の挨拶は控えさせていただきますこと,あわせて,ご容赦いただければと思います。もっとも,挨拶を控えるだけで,あとは,だいたい変わらないとは思いますが。

「廃人をメッセに沈めたりとか」

*1:あまりの時間の短さゆえ,睡眠導入剤も,怖くて投薬できていないのです・・・これだけしか,睡眠のための時間が確保できない状態で投入したところで,寝坊や眠気にさいなまれることは必定。まずは,オフトゥンの 7時間半を確保することが至上命題です。

*2:文句があるなら都心に住め,職住近接にしろという,貧民の生活をご存じない上から意見を述べる方に於かれましては,「パンがなければ,お菓子を食べればいいじゃない」で有名な,マリー・アントワネットの称号を授けましょう。ついでに,称号を授けるだけでは解決しませんので,都心のオフィスの隣に住めるだけの住宅手当もください。ざっと,西大宮の家賃の 4倍,毎月・20万円もあれば,東京都心でも,築・20年・1LDK くらいの物件には住めると思いますのでね。

*3:正直,西大宮 ←→ 大宮の通勤でさえ,微妙な感じでしたけど・・・しょうがないんですよ,職住近接できるだけの賃金がもらえないんですから。

*4:今からおよそ 200年前,1817年にも,生前退位があったとされていますが,そうであるならば,ようやく,皇室も「200年前に追いついた」と言えなくもないでしょうかね。

*5:実際,まさに CDJ 前日の 12月27日,身内の不幸の報せがありまして・・・どれだけ念入りに準備をしても,本当に「不測の事態」というのは起こるものだと痛感しています。皮肉なことに,年末年始で「葬儀場が押さえられない」という事情で,4日間とも,流れることなく行けそうではありますが・・・年末の総決算たる CDJ の前日になって,このような不幸が起きてしまうというのも,なんとも複雑な心境ではあります。

*6:もちろん,メディア向けに,何かしらの「裏ネタ」が与えられるとか,それなりの「素材」があれば別ですけども,少なくとも,客として行くぶんには,もっぱら,集中力しか勝負になりません。

*7:観察・観測データの収集とか,テーマによるかもしれませんけど,記録技術もずいぶん進歩して,リアルタイム性があるにしても,だいぶ楽になっていると思います。