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年末の御挨拶 (2015)

万年,影響力が微妙な,通行廃人A一緒廃人N7 でございます。Twitter のプロフィールを「次の予定さん」にしてからというもの,すっかり廃人色も薄れてきて,喜ばしい限りです。実際の廃人ぶりがどうだかは,知りませんが。
年末の御挨拶・・・はぁ??? 2年連続 2回目,4日通しの CDJ 最終日に,んなことやってられるかーいということで,大晦日に上げる予定の原稿を,11月のうちから書き始めているわりには,何の内容もなく,この原稿を読む時間すら惜しい方が多数であることは必定。そもそも,11月のうちから書き始めておきながら,高々 3ツイート分程度の「まえがき」にもならぬ時点で断筆,12月19日まで一筆も進まず。その間,Live の現場は忙しいわ,業務も (なんとなく) 忙しいわ,もはや,月次となった風邪までひくわで,いよいよもって,この原稿自体,書いている意義なんてあるかなと,毎年疑問に思いつつも書いてしまう。そこが,廃人のつらいところよ。

なんと言いますか・・・年がら年中,思考の断片として,何かしら思うところはあるにもかかわらず,それを書き留めておくことを,まったくしない性分であるがゆえに,いざ書くとなると,途方に暮れてしまう。無理に思い出しながら書いてみたり。完全に,ダメ人間の行動パターンでありますが・・・それもまた,廃クオリティであるがゆえに,ということなのでしょう。

賢明な読者のみなさまに於かれましては,この時点で,お読みになるのをやめることを,おすすめします。今年も 1年,ありがとうございました。何卒,よいお年をお迎えくださりますよう。


さて,今もまさに,風邪がひどいもので (これを書いているのは 12月19日),「体調が常に悪い」という口上も,もはや恒例になってまいりましたが・・・今年ばかりは,仕事のせいにするわけにもいかず。
だって・・・ぶっちゃけ,忙しくなかったもん。ずいぶんと,予想に反して (嬉しありがたし) のことではあるんだけれど。これもまた,たぐいまれなる「悪運の強さ」を発揮しているというか,なんというか・・・そう,(少なくとも,仕事上は) たいした忙しさでもなかったにもかかわらず,1年を通して,常に体調が悪い・・・これはいったい,どういうことだと。持病の片頭痛も,さっぱり止む気配すらなく,むしろ予防薬も増え,ついに,甲状腺の病まで疑われましたが・・・検査結果は,いたって問題なく。
こうなると・・・思い当たる節は,ひとつしかありませんで。
「Live 通いすぎじゃね?」 ―――いや,正直もう「Live 疲れ」しか思い当たらん。
2015年の履歴は,こちら に譲るとして,とかく,数が多くなりがちな「ロック専攻」でも「アイドル専攻」でもないというのに*1,業界と一切関係ない「ただの一般人」が,年間 100本を超えるような Live に通うとは,何事でしょう?
いや,もちろん,100 どころか,それこそ,200 も 300 も通うような (業界とは無関係の,しかし,ある意味で,業界人よりもプロフェッショナルと化した) 方もおいででしょう。しかしここで,はっきりと認識しておかなければならない現実があります。彼らは,日々の仕事もできる,予算も十分にある,サイボーグのような心身と頭脳をも併せ持つ,まさに「選ばれた人たち」であって,私のように,日々の仕事はできない (適当に),明日の予算も,心身の調子もままならない,浅学非才も甚だしいような,悪い意味で「選ばれた人」が,こんなに Live に通っちゃあいかん,ということを。どこをどうみても,「オーバーキャパシティ」に尽きる 1年でした。
好きが高じてのこととはいえ,私のような (万事平民に劣る) 者が,年間 100本を超える Live に通えたということは,たしかに,私の人生にとって,大きな財産にはなります。おそらく,空前絶後の経験となりましょう*2。しかし一方で,明らかにキャパシティを超えた数の Live に通ってしまったという点では,今年は,10年に 1度・・・いや,先ほど申したように「空前絶後の異常参戦」と認定せざるを得ませんでした。このような事態を招いたことは,ゆめゆめ,痛切に反省し,予算と心身に十分配慮した,いうなれば「身の丈に合った」通いかたに改めなければなりますまい。幸か不幸か,2016年以降は,首都圏を主とした会場の改修も進み,一時的とはいえ,会場も少なくなりますので,必然的に,通う数も減っていくことでしょう。たぶん・・・少なくとも,(現状の弊社の制度下にあっては) 平日は,40本を超えては行けませんのでね。
「仕事のせいでなければ,ぜんぶ Live のせいだ。」
これで済ませておくことができれば,まだいいんですけど・・・ただでさえ (常軌を逸した) 体力不足の中,ますます体力が衰えていくのが心配でなりません。分野を問わず,各界の30代の突然死が報じられるたび,明日は我が身としか思えません。その心配について,まさしく,典型的な事案がありました。まさかの足指骨折 (1年半ぶり 2度目) 。6月14日・日曜日,B'z の LIVE-GYM を前に,のど自慢を観ながらの支度中に,まさかの再骨折ですよ。そこから (ギプスが外れる) 1ヶ月で,10本くらいの Live がありましたが・・・「客としてだって,ステージに穴を空けない」執念よりも,そもそも,なんでそんなに骨折するの? そんなにぶつけるの? コケるの? バカなの? 死ぬの? ―――という,そちらの後悔の念が先にきてしまいます。私ももう,風邪はあきらめ・・・るにも辛いものがありますけども,怪我だけは,絶対にいけません。本当にもう,絶対にしたくないですね。人生ソロ活動家として,まさしく「注意一秒・怪我一生」。ほんのちょっとした怪我が,致命傷になりますのでね。高々,足の指一本で,このていたらくですから,本当に怖いです。
そんな 1年を振り返りつつも,気がつけば,来年の 7月31日をもって,なんと! 35歳という,社会的には「節目の年」にを迎えてしまいます。われながら,よくもまあ,今日まで生き延びてこられたものだ (35歳を迎えられるとは,ひとことも言ってない) と,つくづく,悪運の強さを噛み締めつつ書いておりますです・・・
年齢からすれば (いや,全年齢でみたって同じか),もはや,自他ともに認める,心身・経済・社会の三方ヒエラルキー,いずれも底辺一直線,もはや,社会的にまっとうな人間の道からは「完全に」脱落し,再起不能な真性廃人となっておりますが・・・再起不能は再起不能なりに,やけっぱちの独自路線で歩を進め,結果として,社会にも大いに迷惑をかけ,隅から隅まで嫌われる存在でありたいと思う次第であります (`・ω・´)

―――さて,最近,「Liebig の最小律と Dobeneck の桶」というものを,たいへんに意識するようになりました。世の中,この原理原則で回っているんだなあ・・・と。

(Liebig の最小律 - Wikipedia より)
リービッヒの最小律 (リービッヒのさいしょうりつ) は,植物の生長速度や収量は,必要とされる栄養素のうち,与えられた量のもっとも少ないものにのみ影響されるとする説。ドイツの化学者・ユーストゥス・フォン・リービッヒが提唱した。
現在では,それぞれの要素・要因が互いに補い合う場合があり,最小律は必ずしも定まるものではない,とされている。

アミノ酸の構成要素で,よく出てくる理論でもありますね。人間社会で例えるならば,要するに,いろんな能力があって,能力のレベルにも高い低いがあるんだけれど,もっとも低いレベルの能力に抑えられてしまうと。頭脳明晰でも病弱虚弱な人,健康溌剌でも知的障害な人というと,前者は「病弱虚弱」にあわせて,後者は「知的障害」にあわせただけの活躍しか期待できない。まったくもって残酷なことですが,現代社会のほとんどが,このパターンに当てはまるのではないでしょうか。もっとも,ごくまれに,飛び抜けた能力があって,桶の板の高さが足りないところを修復できることもないとは言いませんが (上記の後段に該当する現象),そんな (誰にでもできることでもない) ケースを持ちだされても,なぐさめにもなりやしない・・・といったところでしょう。
こんな例を持ち出すと,いかにも,本当のオレはすごいんだぞ・・・というふうに受け取られそうで,これまた怖いんですが,決してそんなことはなく,高々平民程度の能力しかないところ,それさえも,圧倒的な身体の弱さに支配されている現実が立ちはだかり,人並みさえにもほど遠い,悔しさと無念さに事欠かない人間に過ぎないのですよ。まったくもって,レベルの低い話ですけど・・・
そして,もうひとつ。過当競争の世の中に,ほとほと疲れている人も多いと思いますが,競争が過ぎる現代にあって,「適者生存」の意味するところが変わりつつあるように感じています。よく,世界は「弱肉強食」ではなく「適者生存」であるという言説を聞きますが,これ自体は,まったく正しいと思います。生存に適した者だけが生き残るわけですから。しかし,現代のグローバル資本主義社会においては,「適者生存」を突き詰めていくと,結局「弱肉強食」に行き着くのではないかと危惧しています。支配層と非支配層の力の差 (主に経済力と権力) が圧倒的で,かつ,徹底的に支配層に有利なルールが構築される社会にあって,非支配層,ことに「弱者」が「適者」として「生存」すること自体,かなり難しくなってきているように感じます。そして,急速に弱者が広がり,「弱者としての適者生存」が危ぶまれると,結局,「強者だけが適者」となり,それが「弱肉強食」に行き着く。もちろん,このようなことは (圧倒的多数の非支配層にとって) 望まれないのですが・・・人類とて生物。生物の宿命とでもいいますか,これが,本来あるべき姿なのかもしれません。
我々のような非支配層が,もっともやってはならないことは,「無関心」と「思考停止」であると考えています。これこそ,知らぬ間に,そして,いとも簡単に,支配者の思う壺に操られる,最悪の「逃げの一手」ですのでね。これとあわせて,「めんどくさい」という感情があって,私など,ほとんどが「めんどくさい」でできているような人間ではありますが・・・実はこれが,人類でもっとも厄介な感情のように思えています。「めんどくさい」→「思考停止」→「無関心」,このループが,現代の「適者生存」さえも危うくしかねない。こんな文を書くのでさえも,めんどくさいと思ってしまう私が申すべくもありませんが・・・「『めんどくさい』をやめよう。やめたい。この支配からの卒業の第一歩は,まずそこからだ」と感じています。めんどくさいけど。
「無関心」「思考停止」と並んで,よく聞かれるのが,「現実を見ろ」「理想を言うな」「お花畑」という声です。残念なことに,年々,この声が強まっているように感じます。それはそれとして,正しい現状認識ではあるのですが,えてして,このようなことが言われる現状というのは,決して好ましくないという認識はおありでしょう (現状に満足していれば,わざわざ「現実を見ろ」という必要もないでしょうし)。「現実を見ろ」のひとことで,好ましくない現状に甘んじているというのは,ややもすると,思考停止につながりかねません。現状認識を見失わずに,常に理想を持ちあわせ,それに近づこうとすること,それが「現実を見ろ」という人たちが持つべき,最低限の矜持ではないでしょうか。
幸いにして,今年は,国会の安全保障関連法案とその周辺で,ようやく「市民が目覚めた」という感じがあります。結果やプロセスについては賛否あれど*3,まずは「めんどくさいをやめる」ことができた好例だと思っています。かくいう私も,デモのひとつでも,少なくとも (「憲法改正なき解釈改憲には反対」の立場として) 見に行くべきだったと思って・・・めんどくさいで片付けてしまった最悪野郎 ( ꒪⌓꒪) ( ꒪⌓꒪)

―――よくわからない,いかにも頭の軽そうな奴の与太話は,このくらいにしておいて。もっとも,永遠に,軽い話しかできもしないんですけども←
Live の話をしましょう。2015年,推し事の振り返りです。すでに,今年の参観戦は 100本を超えて,収拾不能&オーバーキャパシティという話はしました。たとい,風邪がひどくとも,足指骨折であろうとも,1本たりとも休みませんでしたし。しかし,そんな話「だけ」で終わってしまっては,100本を超える現場に申し訳がない,むしろ,行かないほうがよかった,ということになりかねません。ごくごく当たり前の原点に立ち返りますが,観客の立場からすれば,Live というものは「量よりも質」ですからね。得られるものがあるからこそ通い続けるものですし,通うからには,何かひとつでも「いいものを」得て帰ってくる。それだけは,絶対に忘れてはならないと,改めて,肝に銘じなければなりません。そういう意味では,幸いにして,今年も Live には恵まれまして,どれひとつとして,無駄なものはなかったですし,そのひとつひとつに,得るものもあったと感じられる 1年でした。 (しかし,明らかに「やり過ぎ」であったことには,痛切な反省を・・・痛切な・・・反省を・・・)
最近,「好きは広めど,嫌いは広めるな」という処世術が,実によくできたものだと感じています。少なくとも,自分が趣味でやっている分野では,実践しない手はないものだと。私としては,たとえ 1,000本を超えて Live に通うことになろうとも,「永遠の素人目線」でありたいものですし,いわゆる「評論家目線」にはなりたくないですし (そもそも,評論家になれるだけの資質もないですし) ,素人目線でいれば,目線の対象が好きである限り,自然といいものが目に入ってくるものだと感じています。そもそも,趣味の領域において,わざわざ,嫌いなものに目線を向ける必要もないでしょうしね。それよりも大きな問題は,実は「好きなればこそ,許されるであろう批判」が,近年,ことに多く感じられるところにあります。もちろん,好きなものとて,あまりに問題が大きければ,はっきりと言わねばならぬこともありましょう。しかし,そのほとんどは,言わなくてもいいような些少な問題ですし,わざわざ,それを表明することで,いたずらに (自分にとっても,他者にとっても) 好きなものの価値を下げてしまうようなことだけはしたくない。「好きは広めど,嫌いは広めるな」これに加えて,「好きなればこそ,許されると思わしき (些少なる) 批判は,そっと胸の内に」,これもまた,ひとつの「マナー」といえるのではないでしょうか。もっとも,私としては,「マナー」という言葉の多用も,あんまり好きなものでもないですけども・・・
上記に通じるものでもありますが,私,「注文の多いミュージシャンとファン」は,あまり好みません (どこかで書いた・・・かも)。「ミュージシャン」と「ファン」の両方とも,というのがポイントです。これは,お互いの関係は対等であったほうがいいということと,いたずらに「作られた世界」を好まない,私自身の価値観によるものです。ミュージシャンであれ,そのファンであれ,お互いが,必要以上に「意識の高さ*4」をもってしまうと,とても窮屈な感じになって,本来,楽しめるはずの世界も,楽しめなくなってしまうものと思っています。ミュージシャンの人気がどうであれ,ミュージシャンとファン,お互いの約束事は,最低限でいい。いうなれば,Silent Siren のような関係*5が理想的です。
そして,最近になって思ったことですが,歴史の長い人たちにとって,いわゆる「昔話」はつきものですが,トップランナーにとっては,むしろ,昔話は似合わないのではないかと感じるようになりました。11月 〜 12月にかけて,YUKI ちゃんや,くぅちゃん (倖田來未さん) の Live に行き (後者は,なんと 3年ぶり! サボりすぎだよ,本当にすいません) など,昔を語れば,いくらでもエピソードが出てきそうですけども,それはそれとして,悪いことは (美談も,そうでないものも含めて) 何もありません。その一方で,過去にとらわれることなく,常に前を向いて,一歩どころか,二歩も三歩も先をゆく手を考え,体現している。これが,真のトップランナーであり,Live でも,そのことがよく伝わってきました。というより,Live に行って「これ,(昔はよかったとかいう) 昔話なんてしてる場合じゃねーぞ」と感じたくらいですし。いやはや,まことに恐れ入りました。
私が (非常に遅まきながらも) Live という世界にハマりはじめたとき,音楽業界のゆく先なんて,まったくもって,考えてもいませんでした。今もですけど・・・ここ数年,いよいよ CD が売れなくなり,CD から配信へ,Live が (収益上の) 柱になるという構造になってきてはいるものの,私としては,そんな「業界の事情」は一切関係なく,ごくごく単純に「好きだから」「自分に合っているから」,ただそれだけで,11年と3ヶ月やってきたものですから。カッコよく言えば,「時代が勝手についてきた」 (もっと言えば,今後離れていっても,ぜんぜんかまわないし) とでも言いましょうか。ただ,たとい,現代でも (何かの間違いで) CD が主流で,数100万枚も売れていようと,Live は (CD の) オマケみたいなものと位置付けられていたとしても,そんな事情にはまったく目もくれず,同じ道を突き進んでいたと思います (ただ,数としては,こんなに多くならないでしょうけど)。Live 歴・12年目になり,よくもまあ,飽きずにやっているもんだと驚くどころか,むしろ,どんどんと (まっとうな,社会的な,世間的な) 人の道を外れておりますが・・・得られるものがある限り,たとえ「永遠のソロ活動家」でも,この趣味はやめられないんだなと,ある種の運命的なものを感じつつ,来年もどんな景色が見られるか,楽しみに迎えたいと思います。




―――去年は,けっこうリアルで,センシティヴなことも書きましたけども・・・今年は,どうでしょう? どうもないか。あいもかわらず,頭の軽そうな,35歳も手前の野郎が書くとは思えない,グズグズな廃クオリティぶりか。
廃人の御挨拶は,以上でございます。
みなさま,どうか,よいお年をお迎えくださりますよう。

*1:多くなりがちという感覚は,あくまで,個人の感覚です。感覚には,個人差があります。

*2:100本については,番外チックなエピソードがありまして。私の長年の知人 (いろんな Live にお誘いくださる,超絶重要知人です) に,毎年「今年は『年間 100本』を目指して・・・」と言われており,そのたびに「100 は無理ですよ〜〜〜」などと,軽口を叩いておりましたが・・・まさか,本当に 100本に達する年が,しかも,こんな早い時期にやってこようとは・・・その後,12月11日に,100本超えが確実な旨をお話する機会がありましたが,今度は「煩悩の数だけ (すなわち 108本) 行きましょう」と言われ,その時点の予定から,もはや,108本さえも否定できない事態に・・・そして本日,109本目に至る

*3:結果について,私は明確に「憲法改正なき解釈改憲には反対」の立場をとっています。もっと,正面からやろうよ。真に望まれる憲法改正だったら,私利私欲を超えた賛同もとれるでしょう,的な。

*4:「このミュージシャンの姿は,かくあるべきだ。さにあらずんば,ファンにあらず」「ご新規さんはお断り。売れてはほしいんだけど,売れれば売れたで,邪魔な奴らがやってくる」などなど・・・枚挙にいとまがありませんが,往々にして,古くからのファンである自分たちが,ミュージシャンを育て上げたかのような錯覚と,ある種の「エゴイズム」が見え隠れします。かくいう私も,古くからのファンであるミュージシャンもたくさんおりますが,このような考えかたは,あまり気分のいいものではありませんね。

*5:「私たち (Silent Siren) に対する見かたはどうであれ,最終的に,私たちを好きでいてくれればいい」という趣旨の話で,2015年の春夏 Tour 以降,MC でよく聞くようになりました。Web のインタビューにもあった気が・・・どこだっけ